ネットのニュースサイトで、加谷珪一氏の次のような興味深い記事を見つけました。

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53224

これを読んで、「たしかにその問題はあるよな」と共感する人は少なくないだろうと思います。僕自身は、「ご尤も」という感じで読んだので、日米の経済統計でも、「米国のサイトの方が英語という外国語であるにもかかわらず、内容が直感的に理解できる」という箇所など、僕はその方面のことは知りませんが、政治や社会問題の記事などにも概して同じことが言えそうに思われるので、「そうなんだろうな」と思いました。

こういうことが日本の新聞記事などにはかなり多くあるので、自分の頭で考えて、情報を自ら咀嚼した上で伝達することを怠るというのも、わかりにくい原因の一つなのではないかと思います。

やることが機械的すぎるのです。

なので、記事を書いているご本人が実はわかっていなかったりする。

お勉強といえば暗記という中で育ってきた弊害がモロに出てしまうわけで、自分がよく理解していないものを人にわかるように説明できる道理はないのです(仮に「説明」したとしても、それはステレオタイプになることが多い)。

ふだんこういうのに慣れすぎているから、今の日本人はおしなべて理解が表面的なものになりやすい。しかし、この記事で取り上げられている最近のお粗末な読解力不足には、こういったこととは別の心理学的要因もからんでいると思われるので、ここから先はそのことについて書いていきたいと思います。

「文字は分かるが文章を理解できない」というのは、要するに「文脈が読めない」ということでしょう。だから、X(旧ツイッター)などでも、「一体どういう読み方をしたの?」というような悪意に満ちたリスポンスが返ってきて、背筋が寒くなるようなことになるのです。

文章では全体の趣旨が理解できない(理解する努力もしない)が、会話ではそれがわかるということは、そういう人にはおそらくないので、文の脈絡を理解せずに反応する人は、会話でも同じことになる可能性が高いでしょう。

そういう人はそれという自覚はないまま、「自己文脈」だけで外界に反応しているのだろうと見られるからです。アスペルガーなどの発達障害がそれにからんでいることは少なくありませんが、それだけではこんなに多くならないので、今のいわゆる自己中心の風潮が関係しているのです。

最近は人間関係に悩んでいる人が非常に多いという印象を僕は受けているのですが、その場合、悩んでいるのはたいてい「まともな」人の方なのです。

「自己文脈人間」は、悪いのは相手の方だと決めつけていて、自己本位に情報や人の話を曲解してしまうのですが、その自覚はない。それを指摘するといわゆる「逆ギレ」するので、まともな人はそういう人相手の対応に苦慮する羽目になるのです。

元々人間はコミュニケーション能力が高い生きものではありません。知能が高く、言語をもっているからそう錯覚してしまうだけで、むしろそれゆえに深いコミュニケーションが阻害されてしまうという側面もあるのです。

人間関係が希薄化し、やたらと観念的になった今の日本人にとって、かつての「以心伝心」は、それは言語に頼るものよりある意味ずっと高級なものだと僕は思いますが、今では未熟で自己中心的な「勝手な忖度」としてトラブルの原因になることの方が多くなっているのです。

しかし、「以心伝心」的なものに頼ることが多かった日本人は説明のスキルを育ててこなかった。それは冒頭記事の指摘にもあるとおりです。先に述べた、自分の頭で考えることをしない。だから虚偽の論理や説明に騙されやすい人が多くなってしまうとも言えるので、上に見た「自己文脈人間」は、しばしば口だけは達者で、自己正当化の能力には長けており、人は後でそれがどんなに事実と違っていたかを知って驚くのですが、表面的に話を聞くだけの人は最低限の裏取りもしないまま、安易にそれを真実と信じ込んでしまうのです。

これと反対の、口下手だが正直で誠実な人の場合、話が断片的で、ときに混乱しているように見えることがあります。

それであれこれ質問しているうちにだんだん「そういうことなのか」というのがわかってくるのですが、今の時代にはこういう善良な人は不利です。立て板に水式に、嘘もまじえて自分に好都合なことだけ一方的に並べ立てる「自己文脈人間」には対抗できない。

彼らは人の揚げ足取りも巧みなので、なおさらです。見かねた詳しい事情を知る第三者が、代わって「おかしいのはあんたの方だろうが」と一喝してやるしかなくなるのです。

こういう問題は、だから、「ビジネスで行き違いが起き、生産性が下がる」というだけにとどまらない。社会全体に暗い影を落としているのです。

僕の見るところ、病的な「自己文脈人間」には二つのタイプがあります。

一つは、自分の能力、経歴、権力におごって、「自己文脈しかない」人間になり下がったタイプです。

たぶん、こういう人間の自己イメージは「能力が高く、豪放磊落で、突破力のある人間」というようなものなのでしょう。官僚などでセクハラ問題を起こす輩がよく見られますが、あれはまさにこのタイプです。傲慢で無神経な破廉恥漢ではないかという健康な自己疑惑が自意識に浮かぶことはない。それはその人間の「自己文脈」には不都合な負のイメージだからです。

もう一つは、これとは逆の、自己愛と虚栄心は人一倍強いが、さしたる成功も得られず、つねに「自分は正当な評価を受けていない」と不満を感じている屈折したタイプです。

こういう人には、失敗して恥をかくのを恐れて勝負や責任を避け、何かや誰かにもたれかかってイージーな人生を歩んできた人が多く、客観的に見ると世間的な苦労をほとんど知らないのですが、ご本人は自分だけ苦労させられているような顔をして世の無理解を嘆くのです。

こういう人の「自己文脈」では、外界は自分に奉仕すべく存在しているので、何か商売をするのでも、それは相手とギブ・アンド・テイクの関係が成立しないと話にならないのですが、テイク・アンド・テイクしか考えていないのでうまくいかず、それでは駄目だと助言してくれるような人とは口も利かなくなるので、「もたれかかり」生活を続けるしかなくなるのです。

サラリーマンなら、言うことだけは一人前だが、社業への貢献度は低く、会社のお荷物になっているが、ご本人は正当な評価が行われず、出世できないのはそのせいだと思い込むタイプです。

それでは自信がもてるようになるはずはありませんが、無理な自己正当化・美化欲求は募る一方なので、周囲の誰それを悪者に仕立てて非難するといったことを繰り返してトラブルメーカーになるのです。

SNS好きなら、そちらにうっぷん晴らしの無理解な「自己文脈」投稿を繰り返す。こういう人の特徴は、並外れた自尊感情ゆえに些細なことにも「きわめて傷つきやすい」が、公正の感覚はなく、不当に他者を傷つけることには全く無神経だということです。

万事において「自己文脈」だから、そういう意識は働かないのです。

こういうのは全部メンタルな要因によるので、別に元々の頭が悪いというわけではない。

ちなみに、この「頭が悪い」にも怒ってくる人がいて、「自分は頭がいいという書き手のうぬぼれに思わず胸が悪くなった」なんて下らないことを迷惑顔でほざいたりするのですが、僕らは学生の頃、仲間内で「あいつは頭が悪い」なんてよく有名文化人をこきおろしたりしていたものですが、それは知的・人間的な不誠実さを言ったもので、一種の道徳的批判だったのです。

だから、元はたいへんお勉強ができたであろうセクハラ官僚なども、知能指数は高いのだろうが、「頭が悪い」に該当するのです。

今は子供だけでなく、日本人全般の「国語力の低下」が言われますが、スマホばかり見ていたのではそれも無理はないかなと思いますが、それだけでなく、原因はこの自閉的な「自己文脈」人間が増えすぎたことにもあるということです。

僕は塾で高校生を相手にしていて、時々彼らの英文の珍解釈や小論文・自己推薦書の繋がりのない文章構成に爆笑させられるのですが、彼らの場合には自覚があって、それも笑えるものだからいい(採点官も笑って点数をおまけしてくれるかもしれない)のですが、冒頭の記事に出てくる、「今週は暑かったのでうちの会社はサンダル出勤もOKだった」という何の罪もなさそうなツイッターのつぶやきに対して、「何故今週だけはOKなんだ?」「サンダル無い人は来るなって?」「暑いならともかく基本はNGだろ」といった反応を返すなんてのは、読解力の欠如を示すだけでなく、おかしな悪感情から人に難癖つけずにはいられないというところがありありで、そこが異常なのです。

要するに、問題は知能や読み書き能力のよしあしではないということです。自己中心的な精神構造ゆえにそうならざるを得ないので、そこを治さないとどうにもならない。そこに発達障害の類がからんでいても、だから必然的にそうなってしまうというわけではないので、自己認識、世界認識のあり方自体に問題があるのです。

そして今の文明社会それ自体にそういう人間を大量生産してしまう素地がある。

最後に、文章の読み方について言うと、文というのはたんなる情報ではありません。昔は「眼光紙背に徹す」なんて言葉があり、英語にも read between the lines(行間を読む)という表現がありますが、何を書き、何を書かないかといったことも含め、その「書きぶり」それ自体に意味があって、すぐれた書き手の場合、たんなる思いつきを書き並べているのではないのです。

今は物書きも量産しないと食えなくなって、だから雑駁なものが増えていますが、少なくとも昔はそうではなかったので、そういうよいものをじっくり読み込むことによって読解力や考える力も鍛えられるのです。

そうすると論理的におかしな点のある、底の浅い議論はすぐ見抜けるようになる。

僕は、本を読んでいて、これは賢い人だなと思ったら、わからないのは自分が悪いのだと考えて、自分に合わせてそれを解釈するのではなくて、わからないものはわからないと率直に認めた上で、必死に考えてわかろうとする努力をします。

民主主義の世の中だから、みんな対等で、勝手な誤読は当然の権利だと思うのはただの馬鹿なのです。

賢愚の差はそこに歴然としてあって、愚はそういう努力をしなければ賢には辿り着けないと考えるのが正しいので、そうでなければ人は向上しません。

今はそういう努力をする人は少なくなって、愚かしい自尊感情丸出しで「オレ様に誤解させる方が悪い」というのでは、レベルがただ下がるだけの話です。

むろん、難しいことをわかりやすく説明する努力は必要ですが、理解できるかどうかはたんなる言葉の問題ではないので、読む側の「理解の境位」が上がらないことにはどうにもならない。

思想信条など重要なことに関してはほとんどがそうです。それがわかって、その努力をするのでなければ、人に進歩はないわけで、これはX(旧ツイッター)レベルの話ではありませんが、ふだんそういう努力を怠っている人が多いからこそ、低レベルの「誤読」もこんなにも増えたのでしょう。

それは一種の公害で、傍迷惑なだけでなく、自分自身を害する結果にもなっているのだということを理解する必要があるのです。

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小野桂史
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