数学という学問について、世間で「数学は暗記か」という話が取り沙汰されることがありますが、答えはイエスでもあり、ノーでもあります。というのは、この質問への答えは学習フェーズにもよるからです。

数学の基礎を学んでいくフェーズではいわゆる『暗記』の割合が大きいはずですね。というのは、新しく登場する定義はしっかりと覚えなければならないからです。sinθとは何か。logとは何か。多項式とは何か。外心とは何か。まず記号や言葉の意味が正確にわかっていなければ、全く話にならないわけです。

しかし、逆に言えばそれだけです。

公式や定理は基本的に定義と既知の定理を用いて論理的に導かれるものであり、決して暗記するものではありません。教科書に記載されている公式や定理の証明方法も、あくまで一例であって、必ずそうやらなければならないという事ではない(実際、ピタゴラスの定理などは100を超える証明方法がある)ので、そういった証明なども、教科書を見てやり方を覚えるのではなく、実際に自分で頭と手を動かし、自分で考えつく色々なことを試しながら自由に導出していってほしいですね。

その試行錯誤の中で、「教科書のやり方はどんくさい、自分のやり方のほうが早くて分かりやすいな」「新しい知識を使わなくても既存の概念だけで説明できるし、その方がシンプルだな」「結局この定義がわかってれば他の公式はすぐ出せるから覚えなくていいな」など、自分なりの体系を構築していく。これが正しい数学の勉強なんです。

なお、数学の勉強法に関して、とある学習塾のブログには以下のような信じられない内容が書かれていました。一部抜粋して載せます。

『中学までは数学が好きだったのに高校では苦手になってしまった💦このような生徒は本当に多くいます。しかし、そうならないための秘訣は、公式の成り立ちの理解に時間をかけるのではなく、

公式の使い方に時間をかける😃

です❗️

(一部略)

実際に中学の時に学んでいる解の公式や、三平方の定理などは、

公式が使える生徒が大勢ですが、

証明できる生徒はほとんどいません。』

とある学習塾のブログより。

これは数学が苦手な人の典型的な勉強法なので、決して鵜呑みにしない事です(これが何故ダメなのかは下で言います)。

あと、解の公式やピタゴラスの定理くらい証明できる子なんて山ほどいるでしょ。むしろそんな初歩的なことすら示せないのは、数学の学習観や取り組み方に相当な問題があるので、今すぐこの記事を読んで数学への向き合い方を変えた方がいいです。この塾に通ってる子達はたぶん殆どがその対象になるでしょうね。

こういう塾って、数学を苦手にしているという罪の意識はないんですかね?ま、こんなふざけた内容をブログに堂々と載せているあたり、とんでもない事をやり続けているという認識はないんでしょうね。今までどれだけの被害者が生まれてきたかと考えると非常に恐ろしいですし、腹立たしい事でもあります。

ここまで批判するのは、新しい問題にぶつかったときに適切な解法が浮かぶかどうかは、どれだけの解法を覚えてきたかや公式の使い方を覚えてきたかではなく、日頃からどれだけ自分の頭で理屈や論理的側面を考えてきたかによるからです。

数学は推論を繰り返していく事によって答えを導き出す学問です。よって、何故そうなるのかと思考する事を放棄し、解法や推論の結果である公式をただ覚え、当てはめたり使い所を探すだけの勉強は極めて非効率的、非効果的であることは数学という学問の性質上当たり前です。

定義や概念を理解した上で、そこから柔軟に、自由にものを考える訓練をする、ということが重要であり、公式や定理の導出はこの一部です。言われた通りに解くことやパターンを覚えるということは発想の妨げ、思考停止にしかならないわけです。考え方をしっかり理解したうえで、その考え方や概念を確認しつつ繰り返して身体に染み込ませる。そうして自分のモノになったものだけが、試験本番で追い込まれたときに真価を発揮するのです。

上に挙げたような勉強の他に、解けなかった問題について解答を読んで理解し覚えようとする勉強。これも最もやってはいけない勉強です。覚えようとすることは、理解することを放棄することにほかならないからです。

覚えればどうにかなるだろう、という考えの人は、新しい問題に対して試行錯誤をしたがりません。そんなことをしている暇があったら、模範解答を読んで理解して覚えたほうがいいと思ってしまう。そして覚えようとして、思考停止に陥る。ひとたびこの「覚える病」にかかってしまうと、そこから抜け出すのはなかなか難しいわけです。

いちばん厄介なのは、そういった勉強法でも、一定の達成感を得られてしまうことです。「○時間勉強した」「問題集を〇周やった」というのは、このような勉強法をしている人にとって実に甘い響きのする言葉です。それが実質的な成長を伴ったものでなかったとしても。でもそれでは、数学をやる意味は何もないわけです。結局大事なのは、「何をやったか」ではなく、「何をできるようになったか」なのです。

数学ができる人ほど、具体的な数値や状況で調べてみたり、答えが出ても特殊な場合で検算したり、別の方法でチェックしたりといったことを厭わないものです。一方、数学が苦手な人ほど、答えを急ぐ余り、よくわからずに間違った一般論を振りかざして的を外した答案を書き、少し違う視点から見れば明らかに間違いだとわかる答えを書いて平然としている。

自分の頭で考える時間を長く取ってこなかった人は、その分模範解答とにらめっこする時間が長かったのでしょうが、模範解答は基本的に、このような実験や試行錯誤を経たうえで答案用に体裁を整えたよそ行きのものです。

模範解答の作成者も、そこに書いてあるとおりに考えたのではないんですよ。そのことを知らずに模範解答を一生懸命理解しようとするだけでは、数学は決してできるようにはなりません。その裏にある、(時にもっと泥臭い)解法のアイデアにたどり着くまでのしこう(思考・試行)を探る努力をしなければいけません。

そう言われても実際にどうすればいいのかわからない、という人も多いでしょうね。そのときに最も大事なことが、

「人に教えることをイメージして勉強する」

ことです。最も、これは数学に限りませんが。問題を解き終わり、理解したと思っても、そこで終わらず、その問題を一から人に説明できるかを試してみましょう。その際の相手としては、自分よりも少し下のレベルの人をイメージするとよいです。自分よりも数学が少し苦手な“架空の後輩”などを頭の中に住まわせておいて、その後輩に向かって説明する感じですね。

少なくとも自分が解けなかった問題や理解が完全でないという感覚がある問題については行うべきです。そしてここは絶対にごまかしてはいけないところです。理解があやふやであること自体は構いません。また戻ってきてトライすればいいので。でも、自分の理解度に関しては、真摯に、実直であるべきです。「今後いつ出題されても絶対に解ける」と思えるようになってはじめてその問題を完全に理解した、と言っていいわけです。

『本田宗一郎という生き方』(宝島社)という本に、次のような一節があります。本田宗一郎とは、世界的自動車・オートバイメーカーである本田技研工業(Honda)の創業者です。

何事も自分でやってみないと気のすまない性格だった宗一郎は、後に仕事の成功と失敗についてこのように語っている。

「人生は見たり、聞いたり、試したりの3つの知恵でまとまっているが、多くの人は見たり、聞いたりばかりでいちばん重要な“試したり”をほとんどしない。試した場合には必ず失敗がつきものだ。しかしそれを恐れていては成功のチャンスはやって来ない。」

発明王・エジソンは「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という言葉を残したが、宗一郎は「成功は99%の失敗に支えられている」と語った。それは抽象的な精神論ではなく、「この道がだめだということを明らかにしたという意味で、失敗は企業に対する成果がある」という考えに基づくものであった。

『本田宗一郎という生き方』(宝島社)

最後の部分は数学の勉強でも当てはまりますね。結局上手くいかなかった考えを、上手くいかなかったからと言ってすぐに捨てて、模範解答に書いてあるものだけを理解しようとする人がいますが、その方法は短期的にはいいかもしれないかもしれませんが、長期的には成長につながりません。

ダメな手法も含めて試行錯誤してはじめて、見込みのある手筋とそうではない手筋の違いがだんだん見えるようになってきて、試験の場においても短い時間で指針を決めることができるようになるんです。

よって、間違い分析ノートを作成し、試行錯誤の過程や上手くいかなかったやり方をしっかり残して、なぜ間違えたのかを分析し、自分でどこが間違いなのかツッコミを入れ、後日解き直しをしてみることが大切です。

数学が得意な人も最初からできたわけではなく、「しこう」を日々積み重ねてきた結果、得意になっているわけです。逆にいうと、日頃から「しこう」しなければ、数学の実力は決してつきません。正しい学習観と方法論は上に書いた通りです。あとはこれを継続するのみです。

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小野桂史
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