「どうやったら国語力はつくんですか?」
これは僕が塾でよく受ける質問です。一つ難しいなと思うのは、学科としての国語力、共通テストの国語のような客観式テストの得点率と、本当の国語力はイコールではないということです。あの試験の場合、設問にヒントがあるので、そこを押さえれば解けてしまう。つまり、要領の問題なので、それは国語力というよりは受験テクニックの問題です。現国だと出題文が読んでわからないということはないので、ただ設問が、文構成がどうなっているかというような、内容そのものの理解とは無関係な形式に関するものなども入っているので、「そんなもの、どうでもええわ」とテキトーに片づけているうちに失点することになるのです。
これは記述式の方を見ないとわかりませんが、英語や数学の偏差値は70くらいで、国語は50前後というアンバランスな生徒の場合、国語力がないと問題文の意味を理解したり文脈を読みとったり、満足な訳もできないので、そういう生徒は国語力がないわけではない。ただ「国語問題の掟」のようなものを知らないだけなので、そこに苦手意識が加わって、そういう結果になってしまうだけなのでしょう。
だから国語だけできないという生徒の場合、それは国語力がないのではなく、「国語問題の掟」がわかっていないだけだと思われるので、そのあたりがわかるように解説してくれている問題集でも一冊やれば、そして「国語ができない」という自己暗示を解除できれば、問題は解決するでしょう。
ついでに、近年増えている小論文についても少し触れておきましょう。小論文では議論が自然に流れ、整合性があって説得力があるかどうかがポイントなので、文のつながりが不自然すぎたり、無意味なことや、前と後ろが矛盾するようなことを書いて評価が良くなるはずがないわけです。たまに、何とか型と命名して、いくつものそのパターンを長々と説明していたりする小論文の参考書などもありますが、大方は有害無益で、文章を書いている人間はそんな型など意識して書いているわけではないので、それを後で誰かが勝手に分類したにすぎないのです。まず問題点を挙げて、それについて論じ、最後にまとめるというふうに、通常は自然に頭が働くから、肝心なのはそこに盛り込まれる中身です。型だけ守っているが、内容の論理的繋がりは不明というのでは何の意味もない。なかには何を聞かれているかを理解せず、違うことを長々と書き並べる人もいますが、こういうのは駅への道順を聞かれているのに、徒歩だと何分、タクシーやバスだとそれぞれ何分、なんて必要ない情報を細かく説明して相手をイライラさせてしまうのと同じです。
そして大事なのは「自分の頭で考える」ということなので、そうしていれば、論述は自然に流れるのですが、借り物の情報を入れ込むことにばかり腐心すると、大抵は支離滅裂になってしまう。大学の推薦用の志望理由書なども、そこにその生徒の「真実の思い」が込められてこそなので、技術的なことは寧ろ枝葉にすぎないのです。
面白いのは、意見作文のようなものの場合、考えながら書いていると、最初自分が正しいと思っていたことがだんだん疑わしくなってくる、というようなことがよく起こるので、そういう例を僕は大学で同期のESを添削していた頃、何度か見ましたが、一体何が正しいのか、途中でわからなくなってしまうのです。本人は苦しい状況に追い込まれてしまったわけですが、そういうのは読んでいて面白いので、内容としては決して悪くはないのです。しかし、日本の学校教育に一番欠けているのはそういう体験と訓練です。ソクラテスではないが、そうやって自分で考えることによって、「わかっていた」ことが実は「わかったつもり」だけだったことに気づいて、無知を自覚するのです。大学入試の小論文のテーマでも、これは一筋縄ではいかないなというものが多いのですが、出題者側は「明確な主張」よりも、それが単純な問題ではないということを受験生が理解しているかどうかを答案から読み取ろうとしているのでしょう。高校の先生には「結論が明確」であるかどうかにやたらこだわる人がいますが、表面的な議論だけしていくら結論が明確でも、それは問題の奥行きを理解していないということなので、いい点数なんかもらえるわけはないのです。
英語の入試問題でも、ある問題に関する意見や議論を示して、あなたはこの考えに賛成か反対か(あるいはどちらを支持するか)、理由を挙げて、○○の語数で書きなさい、というような問題がよく出ます。こちらはそんなに微妙な、答えにくい問題は出ないので、比較的書きやすいのですが、それでも生徒の方が一番困るのは、その「理由」の箇所であるようです。今でも地方の高校などは「詰め込み暗記」一辺倒の教育をしていて、その上に課外だの宿題だので手いっぱいで、社会問題化しているような多くのことの基礎知識すらなかったりするので、「急にそんなこと言われても困る」ことになるのです。大体、学校で要求されるのは、教師が用意した「正解」を言い当てることでしかないので、自分の考えや意見ではない。校則その他のことで「これはおかしい」という意見を言っても、反抗的だということで嫌な顔をされるだけで、対等の立場で意見を戦わせるというようなことには決してならない。昔の高校生は平気で教師をやりこめたりしたものですが、今はそんな下剋上は許されない雰囲気になっていて、親も「内申に響く」ことを恐れて、必死に止めるのです。
だから、それ自体典型的な問題についてであっても、十分な知識もないし、意見表明の機会も与えられてこなかったので、何と書いていいかわからず、小学生でももう少しましな理由が挙げられるだろうと思うようなおかしなものしか出てこなくて、軽い突っ込みだけで瓦解するような説得力に乏しいものになったりするのです。これは英語以前の問題で、書かれている理由が意味不明なので、これはどういうことなのと質問すると、本人が思っていることと、表現されたそれとが全然違っていたりして、つまり、「相手がわかるように書く」ということもできないのだなと判明したりするのです。これが劣等生ならともかく、共通テスト(センター)で総合8割前後はある生徒だったりするので、事態はかなり深刻であることがお分かりいただけるでしょう。学校が事実上「自由なコミュニケーション」と各自で「考えること」を禁止するようなおかしな教育をするから、こうなってしまうわけです。こう言っては失礼ながら、そんな学校、ない方がマシではありませんか?
だから、読書は推奨されますが、わかりきったことながら、それも自分で考えながら読まないと駄目なので、仮に高校生が論説文対策で本を読むとしたら、評論のような、本人と狭い範囲の人間しか読まないような、専門用語だらけの、難解な割に内容は乏しい文章ではなく、この人はほんとに頭がいいなという一流の人の書いた面白い文章を読んだ方がいい。自分の頭の混乱やもつれがそのまま問題に化けてしまったような人の書いたものや、論理の粗雑な文をいくら読んでも駄目なので、そういう見分けも、本を読んでいるうちについてくるものなので、わからないという人は目利きができる人に聞けばいいと思いますが、知的誠実さをもつ明晰な頭脳の持ち主が書いたものなら、わからないところに遭遇しても、それはこちらの問題なので、よく考えると必ずわかるはずです。そういうことを繰り返しているうちに、考える力もおのずとついてくる。論理的な文章を書く素地も、それで養われるわけです。興味のあるジャンルを選んで、そこの一流どころを一冊でも二冊でも、読むといいのです。そして、討論・考察・仮説・会話あたりをその内容でやるともっと効果的です。読書という一見個人でやることを、ほかの人と意見をすり合わせたり、自分の感想を相手に伝えることでより一層の効果が出始めるんです。これが難しいんですよね。
結局会話力ですからね。相手を「慮る」気持ちも必要ですし、何これ?というものを知りたいと思える探究心も必要ですし、一つの事柄から推察する力も必要です。「慮る」が読めない人は調べましょうね。
国語力を高めたいのであれば、日頃から沢山会話をすべきです。単語で話していたらそこを修正するだけで変わります。家での会話を増やしてください。家で単語で話していたら直してください。それだけで構いません。
あ!!親御さんは頼まれてもいないことをやらないでくださいね?ちゃんとお願いされてから動いてください。なんでもかんでもやってあげないこと。それをやると過保護ですよ。
ご飯の時に何も言わなくても箸が出てくるとか、水が出てくるとかね。そんなの自分でやればいいし、欲しければ口があるのでお願いすればいい。学校の提出書類とかもですね。テーブルの上にポンとおいてあって、サインを空気を読んでしてはいけません。サインを頼まれてからしてください。提出期限に間に合わないのであれば、そのまま困ればいいんです。
困った経験がないと、本当に大人になった時に困りますよ。話を戻しますが、国語を伸ばしたいなら、家でできることは親子の会話をすることです。今よりももっと沢山の会話をしてください。共働きでできないという人もいるかもしれませんが、子供と会話ができないほどに仕事をすることって、本当に子どものためになってるんですかね?
片親ならわかりますけど。時間が本当にありませんから。夫婦揃っていて、親子の会話がないってのは、子供のために働いているのでしょうが、本末転倒になってます。
国語力を本当につけたれば、家庭での親子の会話を増やしてください。単語で話すことをやめてください。過保護から脱出してください。それで少なくとも今よりは良くなります。
それ以前のことについては、小さいお子さんがいる家庭では、絵本の読み聞かせなどが国語力育成に効果的であることはよく知られています(これはビデオやDVDでは駄目で、人による直接的な語りかけが大切。脳の反応部位が違うのです)。いわゆる論理的思考力が育ってくるのは比較的遅い段階で、子供は物語的なものが好きで、その中に感情移入して入り込んで、ストーリーを擬似体験するのが楽しいのです。想像力や直観力、共感力も、自由な遊びの他、そういうことで育つ。それから漫画や小説を自分で読むようになって、高校生ぐらいになると背伸びして、比較的読みやすい講演集や、それぞれの興味に応じて科学や哲学、心理学などの入門書もいくらか読みかじるようになり、論理的な文章もわかるようになってくるわけです。
文を読むスピードも、本好きの子とそうでない子では全然違うので、小説なんか、早く先が知りたくて読んでいるうちに、自然に読むのが速くなるのです。だから試験でも、問題文を読むスピードが違うので、設問に答える時間的余裕も読むのが速い生徒にはたっぷりあることになって、余計に得点差がついてしまうことになるわけです。
今は学校でも「読書の時間」なるものが設けられていますが、高々10分程度です。本というのは元来そういう読み方をするものではないのです。しかし、超多忙な今の子供たちには二、三時間ぶっ通しで本を読むなんて贅沢はできないので、毎日10分間決められた時間に学校で少しずつ読むなんてことになって、それでは次に読むときは前の箇所は忘れているし、不効率なやり方なのですが、それで学校は「読書の習慣」を身につけさせられると思っているのです。うーん…。そもそも読書というのは勝手にやるからこその読書なので、時間的ゆとりを奪いすぎるからそんな妙なことになってしまうわけです。
このあたり、学校授業に課外と部活と大量の宿題がプラスされて、睡眠時間も削られるような学校では、ゆとりがなさすぎて国語力も「考える力」も育たないわけです。合理性ゼロのそういう学校に通う生徒たちはうまく手抜きしないと、大切なそういう能力を奪われてしまうのです。これでは受験の妨害をしているのと同じなので、その種の学校に通う生徒やその保護者は、それに対する防衛策を練らねばならなくなるのです。
国語力のつけ方から脱線しましたが、実際今の子供たちの「国語力低下」の原因は、スマホの普及よりも、学校の詰め込み暗記教育と過剰管理の悪影響によるところの方が大きいので、それに触れないでは済まされないのです。不幸にしてそういう学校に入ってしまったという人は、主体性をもち、距離を置いて学校とは付き合い、宿題なども取捨選択して、余計なものに時間を取られないようにして、自分でものを考えたり、本や雑誌を読んだりするゆとりを確保することが大切でしょう。子供が低学年の親御さんたちも、多すぎる習い事や塾などで子供のゆとりを奪いすぎないように気をつけた方がいいと思います。自分で工夫したり、主体的に考え、自問自答したりする能力は、それが「見えない学力」というものですが、自由のないところでは育たないからです。