都市部では小学生から中高一貫校への受験、いわゆる「中受」をするご家庭がかなりの割合いらっしゃいます。

元は関西の塾にいたので、僕も中受の大変さはよく知っています。

小4から塾通いをするのはふつうで、お金も親の手間も、半端でなくかかる。家族一丸となって子供の受験サポートを小学生のうちからやっているわけです。

毎年出る「東大合格者高校ランキング」を見ると、ベスト10はつねに有名私立・国立の中高一貫校で占められています。国公立医学部も、統計を取ればそうなってしまうでしょう。

京大は公立高校もぽつぽつ混じっていて、全体に特定の学校への偏りが少ない(地元占有率も低く、割と全国からバランスよく集まっている)が、いずれにせよ私立が強いことには変わりがないので、「お受験」が過熱するわけです。

中高一貫校が大学入試に強いのは、有名難関校の場合、元々頭のいい子が集まっていて、そういうのが切磋琢磨すれば半自動的に学力も上がる、ということがまずあるのですが、他に、先行学習で五年間で六年分の課程を全部終えてしまって、高3段階では入試演習に入って、丸一年受験準備に使えるということが大きい。

これに加えて、都会だと有名予備校や塾にも通えるので、万全の対策が取れるわけです。

教員も、そういう学校は能力の高い教師を揃えられるので、低次元の丸暗記ばかり強いる並の公立高校とは違って生徒に刺激に富む、面白い授業を提供できる。あれやこれや、「受験に強い」のはあたりまえなのです。

地方の並の公立高校の場合、六年分を五年で詰め込むのと違って、二年で三年分は無理だし、生徒の粒もそこまで揃っておらず、教師の質も劣るので、初めから勝ち目がない。

延岡の高校などの場合には、もう何度も書いたとおり、朝夕課外なんて余計なものまであって、内容も貧弱そのもので、その目立った効果は生徒を慢性睡眠不足に追い込むだけなので、逆に生徒の足を引っ張る結果になるのです。

それでは基礎も応用もどちらも駄目ということになりかねず、いずれにせよ自分で勉強するしかないが、その時間的・内面的ゆとりもないのです。

その指導の非科学性をいくら説明してあげても自分の指導の正当性に固執するので、処置なしなのです。

「考える力」のない教師のもとで「考える力」のある生徒が育つわけはないが、「ある」つもりでいるから、始末に負えない。

話を戻して、中学受験の場合、小学生の頃からそんなにお勉強させて大丈夫なのかという問題はあって、僕自身は昔から、その年齢では好きなだけ外で遊ばせた方がいいと考える派です。

勉強は後でいくらでも取り返せるが、子供時代の楽しい遊び体験は取り返せない。

私立には小学校からというのもあって、一番有名なのは慶応幼稚舎ですが、あんまり早くから同質集団の中で育つと、人間や社会の見方に偏りが生まれやすいという懸念もある。

色々な家庭、能力の子供が混在するふつうの公立小中にも「世の中の実相」を学ぶという点で、それなりのメリットがあるのです。

今は公立の地盤沈下を食い止めようと、全国的に公立の中高一貫校を作る試みが行われているようで、そうすると受験に強い私立と同じ態勢がとれる。

学費は私立と較べてずっと安いから、親の経済力にかかわらず、優秀な子供たちに私立と同じ教育を受けさせられる可能性が広がったと、一応言えます。

「一応」というわけは、今は教員の社会的地位が低く、教員志望者の学力レベルも他の業種の大卒者と較べて概して見劣りする上に、公立の教員採用試験の基準は外から見ると不透明なので、それに見合った資質と能力をもつ教員が確保できるのかどうか、いくらか疑念があるからです。

ついでに公立中高一貫校の入試について言うと、どこもかなりの高倍率になっているようですが、それは私立入試とは少し違うようです。

公立中高一貫校の場合、学校教育法が受験競争の低年齢化を防ぐ目的で、私立などで行われる「学力検査」が禁じられています。

そこで、私立受験のような科目別テストではなく、作文などを通して考える力や表現力など、教科を超えた総合的な思考力や表現力などを見るための『適性検査』が行われるようですが、こういう「試験らしくない試験」は、実は頭のよさをはかる手段としては最も有効です。

いわゆる「地頭」のよしあしは、そういうところにはっきり出るので、もしその趣旨どおりの「適正検査」が行われているなら、知識量や特殊なテクニックがモノを言う試験よりずっと効果的に優秀な子供をえらび出すことができるでしょう。

だから公立の中高一貫校は、教員の質の問題さえクリアすれば、大学受験に関しても私立に負けない成果を出すことができるでしょう。

地域差はむろんあるとしても、素質の高い生徒を集めて、それで難関大にはめったに受からないということになれば、それは教える側に問題があったということになるわけです。

問題はそういう公立の中高一貫校もなく、私立にも見るべきものがないというような地域の子供たちで、延岡などはまさにこれに該当するのですが、環境的に不利になることは否めないので、自力本願にならざるを得ない。

学校側の管理・時間拘束がきつすぎて、その「自力」の発揮まで妨げられるのは問題で、当地での共通認識として、「ああいう『指導』ではよくできる子でもせいぜい九大どまりで、阪大レベルになるともう無理。国立医学部も推薦でないと狙えない」といったことです。

これは二次学力が身につかないからで、共通テストは基礎さえしっかりすれば特段の指導は必要ないし、生徒たちは何のためにあんな忙しい思いをさせられているかわからないわけです。

その基礎も怪しいのは、生徒の模試の点数を見ていればすぐわかります。

生徒本来の資質からすると、1ランクか2ランク下の大学しか受からなくなる、少なくともそういう傾向が強いです。

これは教育環境というファクターでそうなってしまうので、僕は別に難関大信者でも何でもなく、それぞれの生徒がその能力に見合った大学に合格してくれれば嬉しいのですが、ふつうに考えてそれは惜しいことでしょう。

逆に言うと、九大は大丈夫だろうなと見ていた生徒が、重なる疲労で途中から失速して熊大になってしまう、といったこともあるのです。

そういうのは塾講師から見ると歯がゆい感じがする。

中には思った以上に伸びて、当初は視界に入っていなかった上位の大学にすんなり合格する生徒もいるのですが、率直に言って、それは学校のおかげではないのです。

むしろそちらの「手抜き」がうまく行って、必要な効果の上がる勉強ができたということが大きい。

見ていると、変な真面目さがなく、学校のやり方などに疑問を持って、課題はそこそこに、学校との距離を上手くとって、自分の勉強を優先していた子達の方がやはり良い結果を残すことは多い。

元々の素質、潜在能力というものは勉強に関しても大きいが、教育環境も受験には大きな影響を及ぼすので、地域によっては選択の余地があまりなくて、そういうところの子供は割を食うこともあるということです。

こういう場合、学校がよけいな世話を焼かずに、無用な課外などは廃止して、無駄な宿題も減らし、授業では基礎の習得(たんなる暗記ではなくて理解に基づくそれ)を大事にする、というふうにしてくれれば、生徒たちは自分で勉強するゆとりがもてて良いのですが、現実はなかなかそうは行かない。

もう一つ、行き過ぎた部活の問題もあって、中には話を聞くだけで、それじゃ勉強との両立はとうてい無理だな、と思われるものもあるのです。何事もバランスを考えてやってもらわないと困る。

今は地方でも塾があるし、スタディサプリみたいな廉価のネット予備校もあって、それは経済的に余裕のない家庭の子でも無理なく利用できるので、学校が受験指導の任に当たる必要自体がなくなっているとも言えます。

こう言っては失礼ながら、「生兵法は怪我の元」で、受験指導の場合には、指導する側ではなくて、それを受ける生徒の側が「怪我」させられるので、事態はいっそう深刻なのです。

最後に、生徒や親御さん向けに言い添えておくなら、受験というのはやはり「よく準備した者が勝つ」ものです。

二次試験の過去問を解かせて、その出来具合を見れば大体の予測はつくので、共通テストでいくらA判定が出ていても、いくら答案を文字で埋めても、これだとよくて3割の点数しかもらえないなというようなものなら、受かる道理がない。

二次試験の問題というのは大学間でかなり極端な難易差があって、それは全員が同じ問題を解く模試などの偏差値では測りきれないところがあるので、実際の受験ではそのあたりをよく把握しておくこと、そしてそれに対する備えをしておくことが重要なのです。

気をつけたいのは、本人は「かなりできた」つもりでも、実際はその半分以下の点数しかとれていないということもあることです。

例えば英語に関して言えば、支離滅裂な英文和訳の文や、構文自体成立していない英作文など、実際はかぎりなく零点に近いでしょう。

数学なら、同値でないものに同値記号を用いたり(こういうのは論理的に誤りなのでミスとしては中々致命的)、答案が単なる数式の羅列になっていたり、論理的に飛躍のある議論をしているといった場合などでしょうか。

それでも半分ぐらいは点がもらえるのではないかというのは希望的観測というもので、そういうものに頼ってはいけないが、指摘されるまでそれがわからない人というのは案外多いものです。

逆に本番後「しくじりました」と言うから、どんなことを書いたのかときくと、マイナーなミスがあるだけで、大筋の論理展開や構造は合っていて、まともな日本語にもなっているから、自分で思ってるほど悪くないよというケースもあって、こういうのは大方受かっている。そういうものです。

そこらへんのことは過去問を解かせている段階で大体わかるので、いくら頑張っても単語などの知識レベルではなく、理解力レベルでここの問題は無理そうだなと思ったときは、僕は志望校替えを勧めます。

むろん、ある特定の教科が並外れてできて、二次でも満点近く取れそうだ(本人の希望的観測に基づくのではなしに客観的に見ても)というのなら、また話は別です。

しかし、他も人並なら、まず勝ち目はない。

むろん、この大学のレベルなら、この問題はほとんどの受験生はできないだろうと思われるのもあって、そういう場合にはそこはできなくていいわけです。

標準的、基本的な問題でおかしな答案を書かなければ無事合格する。

受験に関して一番アドバイスが必要なのは、おそらくこのあたりでしょう。

そしてそうしたことも踏まえて答案の書き方、勉強の進め方で必要な自己修正(そこは素直さ、柔軟さが必要です)をやって、できる準備をきちんとした受験生は合格する。

「うーん。微妙だな」と感じられるケースでは、とにかく結果を待つしかないわけですが、大方は受かるべくして受かるし、落ちるべくして落ちるので、予想外のことはあまり起きないのです。

また、これは延岡の生徒たちについてですが、概して受験準備に入るのが遅すぎるので、これは生徒たちが課外だの部活だので多忙すぎることもむろん関係するのですが、高3の途中から飛び込みで入った生徒たちの場合には、元からよくできる子ならともかく、もっと早く来てくれれば第一志望を諦めずにすんだのに、と思うケースが多いので、本来的な能力は十分ありそうなのに時間が足りず、基礎固めも終えないうちに本番に突入ということになってしまうのです。

共通テストが終わってから初めて二次の過去問を見て、その準備に入るというようなのも遅すぎる。

それが本人の学力レベルからすると下の大学の場合は別として、難関大の場合なんかとくに、間に合うわけはないのです。

そういうわけなので、生徒の皆さんは主体性をもって、早めに準備にとりかかることです。高2の終わりまでにせめて英数国の主要教科の基礎固めぐらいはしておく。3年生にもなって国語の解き方がわかりませんなどと言っているようでは正直話になりません。

それをしないから、理社も加わってやることが増えると、何が何やらわからなくなってきて、未整理のコマギレ知識の洪水の中で溺れる羽目になるのです。

知識が理解に基づいて整理されると、長期記憶として残りやすくなります。

そのためにはロクに考えもせずやみくもに詰め込むのではなく、理解して入ってくる知識に有機的な関連をもたせ、整理する努力が必要です。

そうやって自分の中で知識を体系化し、理解を深めることで応用も利くようになります。

二流三流の学校というのは、指導も物量作戦に頼りがちですが、そうしたやり方に振り回されていると、多忙さからやることが万事雑になり、板についた緻密な思考ができない人間になってしまう。

それでは学力も伸びず、それが要求される二次の記述などにはなおさら対応できなくなるので、後で泣く羽目になるのです。

そのあたり、自覚をもつことが大切です。

そうすれば自分の学力的な弱点も客観視できて、次に何をやればいいのか、どういう勉強の進め方をすればいいかといったことも、おのずと見えてくるでしょう。

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小野桂史
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