僕は正直なところ、実績というものを載せるのがどうも好きではありません。「実績」というと、あたかも「指導者のおかげで受かった」という響きが含まれる感じがして、違和感を覚えるんです。しかし、このあたり、いわゆる「熱血指導者」は何かご本人がカン違いしていて、「自分たちのおかげで受かったのだ」というような雰囲気を醸し出しています(実際に、内部でそういう話をしていたのを聞いたこともある)。
こういうのは、しかし、「本人の資質と努力あればこそ」なので、優秀な子が多く集まれば、指導者がよほどのボンクラでないかぎり、結果は出ます。指導者の能力、指導方法のよしあしはむろん関係するが、結局は本人次第なのです。
僕は現在、大学受験用の塾をやっていますが、「一を聞いて十を知る」タイプの自己修正能力の高い生徒は、最初は「どうもこれは無理っぽいな。志望校を下げさせないと…」なんて思ってたのが、「案外いけるかも」となって、最後には「大いに見込みあり」という判断に変わることもあるのです。そうなると大方は成功する。
逆に、「十を聞いて一を知る」反対のタイプの生徒もいるわけで、嬉しくないことに、こちらも大方は予感(悪い予感の方)が的中したりするのです。僕は割と良心的な塾講師なので、生徒によって扱いが違うということはないよう心掛けているのですが、こういうところはいかんともしがたいので、「そのあたり、頭の使い方(と勉強方法)を変えた方がいいよ」とアドバイスし、具体的な方法を色々と提示しても、その意味がパッと分かる生徒とわからない生徒がいるのです。そこらへんがいわゆる「地頭の差」ということになるのでしょうが、そういうところまで教える側が変えることはできないので、結局は生徒次第なのです。
地方の場合だと、学校の「指導」なるものにしばしば無茶苦茶なものがあって、そんなものにまともに付き合っていた日には、疲労困憊させられるだけで、その生徒の資質よりずっと低い大学にしか受からなくなってしまうので、「学校とは距離を取って付き合えよ」とアドバイスせざるを得ないのですが、こういうのは論外です。助けるのではなく、生徒の足を引っ張っているのですから。
そういう「迷指導」は論外として、まともな指導でも、結局は生徒次第だということなので、僕がそういうことを本来あまり宣伝したくないのは、そのあたり「生徒次第」だということがよくわかっているからです。月謝を取って商売しているのだから、それなりの成果が出るのはあたりまえで、受かりそうな資質の持主が来ているから受かっているだけの話なのです。
「熱血指導者」たちもそのへんはよく認識しておいた方がいい。あんた方の手柄ではなくて、生徒たちの手柄なのだということを。
ついでに、勉強のノウハウの話にも少し触れておくと、そういうものはたしかにあって、ブログでもよく書いているようなことを適宜アドバイスしていますが、それがうまく活用できるかどうかは、これまた生徒次第なのです。機械的に真似てうまく行く方法なんて一つもない。そう思っていた方がいいのです。
僕自身は非科学的な根性論が昔から嫌いなので、そういうものに頼らない勉強法が大事だと思いますが、よく生徒たちに言うのは、一人一人性格が違うように、頭にも皆個性があるということです。自分のそれがどういう性質のものであるかを発見して、その長所を伸ばし、短所を補うような勉強法を編み出すのが大切なことで、大学受験の際にそういうものの雛型となるようなものをつかんでおけば、大学入学後の勉強に役立つのはもとより、社会に出てからの仕事にも役立つ。それは「一生モノ」の宝になるのです。
たとえば、僕は子供の頃から丸暗記が苦手でした。更に言えば、自分に興味がないことや意味がわからないものはまるで頭に入ってこない。興味があれば、憶える気はなくても自然に憶えてしまうし、意味がわかれば割とすんなり覚えられるが、そうでなければ、いくら試験の必要に迫られても憶えられないのです。一夜漬け能力は人並にあったが、それは「超短期」で失われるのです。
たとえば、October という単語があります。これが「10月」の意味だと、僕の頭にしっかり入ったのは、octopus が「タコ」なのは、足が八本あるからで、oct-は8の意味だと、何かで読んで、なのにOctober が八月でなくて十月なのは、ローマ時代に月が二つ追加されて、元は八月だったのが十月になったのだと知ったときで、その瞬間に「なるほど!」と合点がいったのです。めんどくさいことこの上ないが、そういう頭の構造になっているのだから仕方がない。むろん、全部をこういうやり方で憶えたわけではないので、たとえば化学の無機分野などでは色や沈殿の種類を覚える時は語呂合わせの単語集も最大限活用して、何度も何度も何度も何度も繰り返しテストして何とか覚えました。
いわゆる「論理的思考力」なるものは、別に不足しているとは感じませんでした。だから数学や物理は苦手ではなかった。暗記に頼らなくて済むのが有難かったのです。じっと集中して、「わかった!」と閃いたときは快感です。
こういうふうに、人の頭には固有の癖というものがあるのです。その癖を把握して自分なりの勉強法というものを編み出さないといけない。それができるかどうかが学力を伸ばせるかどうかの大きな鍵です。僕にとってはそこに「意味」を見出せるかどうかが鍵でした。
各種の勉強法も、それを踏まえて活用するのです。でないと振り回されるだけになってしまうでしょう。その「頭の個性」を誤解して、人の助言を受け入れず、頑固に自己流をふりかざすのは愚かですが、何事も自分の頭に適合するようにアレンジする工夫が必要だということです。
もう一つアドバイスすると、僕の場合はそういうわけで、面白いと感じられないと頭が働かない(だから今でも共通テストの長文など読んでいると眠くなってくることが多い)ので、気になったことは道草を食って詳しい、余計な本まであれこれ読んだりしたのですが、そういうのも頭の幅を広げたり、思考力を期せずして鍛えることになるので、長い目で見ればプラスになるということです。何をするにも結局、大事なのは有機的な知識のつながりなので、「よけいなことをすると損だ」などとは考えない方がいいということです。塾の生徒たちを見ていても、そういう「余計な話」を面白がって聞いているような生徒ほど伸び幅が大きいので、「頭の遊び」は大切だということです。